
列車の中に橋がかかっている。
パーティションはガラスで、ブラインドは山桜材。
人の手に触れるのは天然素材であるべき。つねに顧客第一。
町から町への移動手段ではなく、乗っている時間そのものが旅。
九州を中心に、「乗る体験こそが楽しい」列車が数多く走る。
しかし、今では全国に広がった、オリジナリティあふれる
観光列車の祖はあくまでも謙虚である。だが熱い。
作り出すものすべてが面白いおじさんが、デザインの秘密を語る。
水戸岡鋭治は、いかに
デザイナーになりしか
「鉄道模型の神様」といわれた故・原信太郎氏が自作した模型「或る列車」が、原寸大の列車としてこの夏、デビューする。「原鉄道模型博物館」副館長の原健人氏を監修に、水戸岡さんのデザインで。車内では、ミシュラン2つ星のシェフ成澤由浩氏が手がけるスイーツのフルコースが楽しめる。
―これ、もうできたんですか?
「まだ作ってます。7月17日のプレス発表会までには完成させたいと…(取材は7月7日)」
―水戸岡さんが最初に鉄道を手がけたのは、38歳ですね。
「もとはイラストレーターでね、いちばんたくさん描いたのは不動産のパース。でもずーっとデザイナーになりたいって思ってたんです。子どものころから、かっこいいもの、美しいもの、気持ちのいいもの、楽しいものが好きで。実家が家具屋だったので、継ぐつもりで高校は工業デザイン科を出たんだけど、できれば“総合的にデザインする”っていうことをやりたかった。グラフィックとかプロダクトとかに特化するんじゃなくて、大袈裟に言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな(笑)。あとは千利休とかウォルト・ディズニー」
―で、福岡の「ホテル海の中道」(現 ザ・ルイガンズ)を手がけた。
「本当はオープニング用のポスターを描く仕事で行ったんです。そこでプロデューサーの藤 賢一さんに“キミは本当は何がしたいの?”って聞かれてとっさに“デザインです”って答えたら、“このホテル、やれよ”って(笑)」
―“やれよ”って、すごいなぁ。何をやったんですか?
「内装から家具、照明、ユニフォーム、看板、パンフレット、サインまで、建築以外のほとんど全部」
―今、鉄道をつくるときとおんなじですね。自信はあったんですか?
「会議が心配だったので…だって出たことないから!(笑) 絵は描けても説明できなかったので、先輩の市川敏明さんに助けてもらいました。不安はそこぐらい。むしろ業界を知らない強みはあったと思います。よく本にも書くんですが僕の“無邪気な楽観”が、意識なくデザインの垣根を越えさせてくれた。鉛筆1本デザインすることと、テーブルや床、壁、照明をデザインすることは同じなんですよ。それらが使われている空間で行われるサービスがつながってるから。そういう全部をデザインする機会なんてなかったので、“やるしかない!”って思ってたんです」
―で、その後、鉄道に進む。
「ホテルが開業して話題になって、JR九州が観光列車を走らせるときに、僕を思い出してくれたんですね。そこでもパッと乗った(笑)。僕には失うものは何もなかったので。頼まれたんだからやるしかない。据え膳食わぬは…ですよ(笑)」
―でも鉄道知識はゼロ?
「ええ。でも、当時の社長は“水戸岡さんのデザインに関して、色や形については何も文句は言わない”って言ってくれました。“ただ、法律やハード上のルール、スケジュールと予算だけは守ってくれ”と、それで、基礎的なレクチャーは受けたんです。でも実際に“内装に木を使いたい”“ガラスを使いたい”っていうと渋る。“できない”とは言わないけれど、やりたがらない。建築だったらガラスの外壁のビルなんて当たり前なのに、列車だと“危険だ”ということになる。どうしてダメなのか聞くと誰も説明できない(笑)。聞きまくったら“やったことがないから”“メーカーが嫌がるから”って。要は利便性と経済性を追求したうえで、それが“もっともみんなが儲かる答え”というだけ。“より楽しい、より美しい、より心地よい”っていう、お客さんの気持ちとはつながってなかったんです」
―JR九州は、そこまで見越して水戸岡さんを起用したんですか?
「おそらくは。当時、JR九州は大赤字で、初代社長は “JR九州はいまだかつてないものをつくってお客様に乗ってもらうんだ”ってしょっちゅう言ってましたから。“われわれに失うものはないんだ!”って」
―水戸岡さんとおんなじだ。
「企業に同じ気持ちの人がたくさんいて、何よりリーダーがそう思ってるときだけ面白いものができる。あのタイミングに僕が入ったのは、運。僕がいなくても別の誰かが面白いことは始めていたと思います。僕はいつもJR九州に複数案提出するんですが、選ばれるのはいつも“他社はどこもやってないけど、実現するには難関をいくつか乗り越えねばならないもの。お金も手間もかかって利益率は下がるけど成功率は高いもの”。同時に提案する安全策は採用されません」
―すごいなあ。
「そうやってその都度難しいカリキュラムを組んで、乗り越えていくたびに僕らの実力はアップしていくし、社員の意識も上がってきたんだと思います。で、ついに一部上場ですからね。でもこれからです。ブランドのような気分で調子に乗ってるとダメ。これまでは国家の保護のもとにお金をもらってやってきたのが、自力でやってかなくちゃいけないんだから…と、僕は偉そうに言ってますけどね(笑)」
デザイナーの仕事は、
色・形・空間だけではない
―水戸岡さんはご自身の会社では、リーダーですよね。
「うちは完全な徒弟制です。デザイナーもアイデアを出すのも僕ひとりで、あとはみなさんがそれを図面化して、理想に近付けることを学習し、仕事として身につける。僕は、色・形・空間・素材を使って、いかに利用者にサービスできるかを考えています。それがデザイン。整理・整頓・清掃・清潔・しつけの“5S”を実現しないとデザインはできない。うちの事務所って毎日会社の周りを掃いてるんですよ(笑)。ナンキンハゼの木があって、秋になると花粉が飛んで真っ黄色になるんで」
―お寺みたいですね。
「よく言われます(笑)。でも、昔の日本はそうだったんですよ。身の回りのことはお役所任せにせず、“自分でする”。それが普通」
―今、何人ぐらい社員さんがいらっしゃるんですか?
「建築の方も合わせて12人かな」
―建築とおっしゃるのは?
「今は駅舎の設計とか、診療所とかもやってますので。駅舎だと、生活にまつわる部分全部入ってるでしょ。商業エリアはそっちの専門家がやるけど、それ以外の公共スペースは僕たちがやります。今年は大分駅のリニューアルをしました」
―どのくらいの案件を並行して回してるんですか?
「大きなものはJR九州の都市計画をひとつ。あとは両備ホールディングスのちょっと変わった豪華客船。全国各地の鉄道が5本と、JR九州のが2本」
―ご本のなかでは、町作りに際して構造的な問題にも触れてらっしゃいますよね?
「デザイナーとして感じる限界が、構造なんですよ。生活を豊かにするための問題をデザインの力でどう変えていけるのかを考えたときに、今、僕がいちばん気になるのが若い夫婦の共働きと育児。保育所については取り沙汰されていますが、問題はもっと本質的なところにある。今の若い人たちは一様に能力が高いうえに、インフラは整備されているしコンピュータを使う力もあるから、本来ならば昔の3~4倍のスピードと分量の仕事をこなすことができているはず」
―その分を育児に充てられると。「そのはずなんですけど、せっかく余った時間を“上”が浪費している。リーダーの決定力の遅さがボトルネックになってるんです。そこの決断力さえあれば、たぶん実働6時間ぐらいにはできる。そうしたら夫婦で4時間浮くことになるから、子育てに回せるでしょ?」
―それって、デザインの力で変えていける部分なんでしょうか?
「そのための環境を整備するのがデザイナーの仕事だと思っています。だから今、僕は、公共の空間のデザインをもっとも大事にしたいと思ってるんです。個人の持ち物が大したことなくても、みんなで共有している空間が素晴らしければ、いい国です。僕は今、駅のホームなどを手がけていますが、なんとか利用者本位のデザインを実現したい。駅のホームには石油製品の長尺シートではなく、無垢の木を張りたい。人間がもっとも心地いいのは天然素材なんですが、それを使うには技術力と知識力がいる。最先端のものを使うのは比較的容易です。でも新しいものと古いものを両方使うにはエネルギーがいる。それを実践していきたいですね」
―デザイナーって大変ですね。
「いえ、全然! よく“水戸岡さんって、どういうときにアイデアを考えるんですか”って聞かれるけど、考えたことないです。人と話していたらどんどんくれる。新聞・雑誌・テレビ・広告・時代がくれる。仕事先の社長が語ってくれる。“電車を作るぞ。特急にしよう。車両は2両”…全部アイデアです。それを聞いて僕はデザインするだけ。大事なことは90%以上決まっていて、僕は最後の、人の目に見えて、人が触れるところを担当しているだけなんです。それは車両でいうと5%とか、ヘタしたら1%程度。でもそこがお客さんにとってはすべて。だから絶対に失敗はできない。お客さんに対してはもちろん、僕のところに来るまで汗を流してくれた無数の仲間がいるから、最後にデザイナーがカッコつけて空振りするわけにはいかないんです。そしたら99%の人たちの“一所懸命”が消えてしまう。僕にはヒットを打つ義務があり、力を貸してくれたすべての人は、僕に対して“成功してくれ”と言う権利があるんです。列車も駅も船も、僕は“作品”とは絶対に呼びません。僕はあくまでも使う人の気持ちを形にする代行業。成功は僕の義務なんです」